私は「孤独」に耐えられない体質の人間だ。友達に「寂しい時どうしてる?」などと聞いても、「私一人が好きだから、寂しくないよ」などと返されることもしばしば。しかし、なぜか私は一人になると「孤独感」が襲ってきて、どうにもこうにもいられなくなる。
そんな私は、究極まで「寂しさ」と向き合ってみた。
もくじ
*寂しさの原因は?
どうにかこの寂しさを改善したい。そう思って色々と調べてみた。すると、ある記事の中に「寂しさは”心の問題”だ」と書かれていた。環境によるのではない。なぜなら、人によっては同じ環境にあっても寂しいと感じないからだ。だとすれば、心の問題なのだ…と。
様々な記事を読んでいると、寂しさの原因は自己肯定感が低いからとか自分に自信が無い人に多いとかそんなことが書かれていた。確かに思い当たるフシは沢山あるのだ。
私は、小さい頃とても怖がりで、まだ親と一緒に寝たかった時期にベットに寝かされていた。そのことを今でもよく覚えている。夜になると必ず「怖い思い」がやってきて、お経のように聖書の言葉を唱えないと寝られなかった。そんな過去の経緯もあり「孤独」というものが人一倍嫌いなのかもしれない。
自己肯定感の低さ
確かに”自己肯定感”といえば、私は自分を肯定するのが苦手になった。今はそうでもないが、高校時代に仲間外れにされた時期には、「自分はその程度の価値しかない人間なんだ」と思い込んだ。そして、「人に無視されるような、空気のような扱い」も仕方ないとさえ思った。自分はその程度の存在だ。と自分でも思うようになってしまった。つらい時期に、誰にも気づいてもらえずに孤独感をたくさん味わった。
自信の無さ
自信の無さについては、恋愛によって植え付けられたように思う。私は自分の事は好きだ。今はそう思っている。しかし、自分の容姿や体型には自信が持てない。年をとるにつれ体型は丸くなってくるし、顔はエラが出ている。毛穴も気になるし、目も化粧で二重にしている。
今の時代、ケータイアプリや、プリクラ機などの修正能力が高すぎて、こんな私の顔もすごく「可愛く」してくれるのだ。すると増々、化粧をしていない自分やアプリを使用していない写真の自分が不細工に見えてたまらない。
最近の恋愛といえば、結局フラれて終わることが多い。そのため、「自分にもっと魅力があればよかったのか」と思うようになり、自信喪失へとつながっている。
*やってみた対策
さて、そんな自分の中にある原因を探っていく中で、じゃあ実際にはどうしたらいいのか。と、いろいろ試しにやってみた。
1. 好きになる努力
まず、「自分を好きになる努力」だが、これは鬱の時にやったので、今は自分が好きだ。だから特には対処していない。
関連記事>>鬱の私がやってみた「自分を好きになる方法」Commind soon
2. コンプレックスとの対面
顔のコンプレックスについて。これはもう、「ありのままの自分」を受け入れるほかない。しいて言えば、「今日もかわいいね」とプラスの言葉をたくさん浴びせてあげる事。これくらいしかできないかな。
先日、寂しさのピークに達し、珍しく実家にご飯を食べに行った。その時、「自分は可愛くないし、太ってると思っている」と親に話した。するとそれに対して、「そんなことないよ」「それは大いに誤解だ」と否定の言葉をもらった。(さすが親w) すると、少しだけ気持ちが楽になったのを覚えている。
きっと、自分の考えや思い込みに対して「正しい基準」の言葉を浴びる事。これはとても大切だと思う。間違った言葉に対しては「否定」を。足りない言葉には「もっと愛の言葉のシャワー」を。プラスの言葉、大事な言葉はもっともっと自分の耳に入れた方がいい。
※ちなみに「かわいくなる努力」をしても、「かわいくない私なんてだめだ」と逆に肯定感が失われることもある。
3. 寂しい時に「人といる事」をしてみた
今現在一人暮らしをしているので、余計に寂しいと思うことが多い。家の中で仕事をすることも多く、一日仕事をしていると、誰ともかかわらずに家から一歩も出ずに一日が終わるなんてこともある。なので、寂しい時には、
・友達にメールをしてみる
・家族に電話してみる
・友達の家にテレビを見に行く
など、具体的に動いてみた。するとどうなったか?
「それでも寂しさは消えなかった。」(笑)
やばい、やっぱり私精神的におかしい。そんなふうに思った。けれど、もちろん、人といるときの方が安心するし、一緒にいるときは別に寂しくない。寂しいのはその時間が終わった後にまた無性にやってくる。
※一応一番良かったのは、同じ一人暮らしの女友達と寂しさを分ち合いながら長電話したことは、とても有効的だった。
4. 運動
運動が不足すると脳が酸欠のような状態になり鬱状態になることも多い。なので、セロトニン分泌のためにも運動をしてみた。有酸素運動の方がいいのだろうと思うが苦手なので、ときどきランニングをしたり、疲れているときはお散歩をしたりした。普段、車で移動するところを自転車に乗り換えることもしてみた。
※感想としては、ランニングは3日坊主なので続かないが、散歩は気持ちがいいし、自転車生活も最高!
*精神論(?)
私は、小さいころから神様を信じていて、教会に通っているクリスチャンだ。なので、「神様が共にいる」ということを知っている。”神が共にいるのだから寂しくない”という精神論はどうなのか?ってことについて。
「神様がいるのに、寂しいと思うなんておかしい。」クリスチャンの私は、こう思った。時には信仰が無いのではないか、祈りが足りないのではないか、寂しい思うこと自体罪であって間違っているのではないか。そんなふうに感じた。すると、本当に「寂しいと思っている自分」がまた嫌いになってきそうだった。
「他の人は一人でも平気なのに、自分は何でこんな寂しがりなんだ。不良品なんじゃないか」そんなふうに自分の事を思ってしまうのだ…。しかし、「神様がいれば寂しくない」という精神論は、今の私にはそぐわないものだった。
*寂しさの本当の意味
そんな対応策の実行と精神論を経て、わたしは「寂しさを無くす」事はせずに「寂しさと付き合っていく事」を選んだ。きっと私は何をしたって寂しがりなんだ。だとすれば、この寂しさとうまくこれからも付き合っていかなきゃいけない。だから、この寂しさをどのように見てあげるかを考えた。
先日、両親に心の内を明かした時とてもいい言葉をもらった。それは、「きっとその寂しさ自体も神様がくれた賜物だと思う。」という言葉。そう、賜物とは、神さまが賜ってくれた宝物(長所)という意味だ。それを聞いた時になぜか私の中では「なるほど」と、とても腑に落ちたのだ。
「そっかわかったぞ。」と思った。
この寂しさは、きっと悪いものではなく、”良いことに用いるために与えられたものだ”とその時初めて自分の「寂しさ」の本当の意味を知った気がした。寂しい気持ちがあるということは、逆を返せば、人を好きになる賜物があるということ。人を愛して、人と一緒にいる事の喜びを感じる事が出来るということ。ならば、自分が「寂しくない」と思える環境をもっともっと作っていけばいい。
*寂しさをプラスに変える
寂しさは、人との関係に役立つ。依存してしまうような不健康な関係は良くはないが、全く誰にも興味がなく完全に一人が好きというのも、どこかしら欠けている気がする。バランスは大事だが、この「寂しさ」も、人の役に立てていこう。
- 人とかかわる仕事に就く
- みんなが集まれるイベントをする
- ホームパーティーをする
- 将来シェアハウスを経営する
- 結婚して子供を作る
など、きっとプラスに考えればいいアイディアもたくさん出てくる。そんな良い方向での「寂しさ」との付き合い方を考えていきたい。
*寂しさと向き合ってみて/感想
いつも、何かあると極限まで考え込んでしまう私は、今回は「寂しさ」と向き合ってみた。寂しくて、悩んだり、一人で泣いたりすることもあったが、考えきった後はとてもすっきりした。
素直に友達と電話できるようになったし、「寂しいんだから!」と開き直って人に甘えることも出来るようになった気がする。
「寂しいことは悪くない。」これが私が導きだした答えだ。そして、その寂しさを、やっぱり「だめなこと」に使うのではなく、”共に励まし合ったり””支え合ったり”するために用いていきたい。
以上じゃ!んちゃ。