こんにちは。ゴスペルシンガーの矢嵜風花です。「自殺者を減らしたい」と願い、歌を歌い始めて5年が経ちました。その中で様々な思いと戦いながらやってきた活動。今回は私の思いと、今までもらった意見に対しての私の考えと答えをつらつら書きたいと思います。
もくじ
*はじめに
私はクリスチャン(いわゆるキリスト教徒)です。そして、「自殺者を減らしたい」と願って活動をしている。…が、よく勘違いされます。
私に人を救う力なんて無いし、全ての人を愛する愛なんてありません。
これは、私の活動の中で「前提」として思っている事です。それでも”出来ることはやりたい”それが私のスタンスです。
*偽善者と言われます
さて、この活動を始める前に私は思った。「私には愛がないのに、こんな活動をする資格なんて無いのではないか」と。きっと、たくさん愛があって、分け与える力のある人がやるのがいい。
しかし、ある人が言ってくれたのだ。「別に資格なんて無くていいし、最低なクズでも人の為になる活動はできる。」そしてこんな知り合いの話をしてくれた。
あるお金持ちの社長さんがいて、その人は自分の会社の利益のためなら他の会社を蹴落とす。そして、他の会社を潰しても屁でもない。性格的にはとてもクズ。でも、その社長は、海外の貧しい人達のために教育支援をしている。理由は、有益な人間が育ったら自分の会社のために貢献して欲しいからだ。けれど、貧しい国の人たちは、学校に行けなかったのが行けるようになり、とても素晴らしい支援を受けられるのでこの社長には嫌な気持ちも無いしむしろいい人だ感謝しているのだ。
その話を聞いて私は「資格のある人しかできないなら、きっと誰もこの活動はできない。」と思い直した。そして、「必要な人にだけ届けばいい。」と。
*死にたい人は死ぬ
まず私は「自分の大切な人達だけでも、死なないで欲しい。」そう思って歌いはじめた。今まであなたは「生きててね」なんて、友達に言ったことがありますか?私は無かったためそこからのスタートだった。
けれど、私は「死ぬことは悪い事」とは言えない。きっと死にたい人はそれなりの理由があるし、生きているのが辛いとか、死んだほうが楽になるとかその人にしかわからない苦しみもあると思うから。
結局のところ、いくら周りが「生きてね」なんて言ったところで、「だったらお前が生きることの責任を取ってくれ」くらいにしか思わない。死にたい人は死ぬ。そう思う。
私自身「死にたい側の人間」だったため、生きる力がない分「口だけの言葉」は意味を成さないことを知っている。
*二種類の「死にたい人」
“歌なら遠くの人にも届く"と思い「見えない誰かにも届けばいいな」と歌いつづけた。でも私が届けたいのは「全ての死にたい人に」では無い。
「死にたいと思っている人」は2種類いるように感じている。それは、
1.単純に心の底から死を願っている人
2.本当は生きたいけど、死にたい人
1.の人が実際にいるとすれば、そういう人は周りに気付かれずにいずれ実行するのだと思う。それを望んでいるから。そして、こういう人は「死にたい」などとは言わない。何故なら「死にたい」と思っているから。きっと口に出したら、周りは心配するだろう。止めようとするだろう。そうされると困るから、口には出さない。
2.の人は、「本当は生きたいけど、苦しいから死んだほうが楽になれる」と思って死にたい人。もし、生きる希望があるならば生きたい、何かしら助けがあって救いの手が差し伸ベられれば生きたい人。1の予備軍のような人たちだ。
私が届けたいのは後者である。
(厳密には、1.の人が自殺を実行してしまうのだから、1.の人にも生きて欲しい。と心から願っている。)
*救うのは私では無い
さて、歌を届けたところでその人が生きるようになるか?と言われればそんな簡単なことでは無い。だって遠くにいる誰かを遠くにいる私が現実的に救うことなんて出来ない。手も届かない。
けれど、私に出来ることもある。それは「私に生きる力をくれた神を紹介すること」そして「歌を通して励ますこと」。
冒頭にも書いた通り、私には人を救う力も愛する力もない。せいぜい大切に出来るのは周りの大好きな友達くらいだ。
けれど、私を救ってくれた神さまの力は無限だ。だから、その神を歌やブログを通して紹介している。そして、それは「必要としている人」に届けばいい。
「励ましが欲しい」「何かしらにすがりたい」「聴くと元気になれる」そう思ってくれる人だけが聞けばいい話で、いらない人は聞かなければいい。それが死にたい人、そうでない人に関わらず全てにおいてそうだろう。
「私」に救いを求める人には、「私」は応えられない。私は神ではないからだ。
*自力本願と他力本願
私は、「自殺者を減らすことは自分一人では出来ない」と思っている。そのため、沢山の人に助けを求めながら活動をしている。しかし私の活動を見て「他力本願だ」と言ってきた人がいた。ネガティブな意味でだ。
辞書で調べるとこんな意味だ▽
他力本願:「ひと任せ」「他人依存」「第三者に任せっきりにして自分の手を一切汚さずに物事を完遂する」
そして自力本願は、造語だと言われている▽
自力本願:「自分の力でなんとかする、がんばる」というような意味で用いられ、それはそれで立派なことなのだが、この「自力本願」は、経典には全く出てこない言葉。おそらく本来の仏教語では無い(「大正大蔵経」にも出てこない)。「他力本願」と対にして作られた造語と思われる。
しかし、仏教を調べてもわかる通り、他力本願とは本当はとてもありがたい意味で用いられる。それは”神が私たちを救いたいと願って成就した“という意味なのだ。
他力本願とは、「人任せで自分はやらない。」という意味ではなく「神が代わりに与えてくれた恵み」だ。
私は他力本願でも構わない。自分にできることなんてたかがしれているし、人と力を合わせることの素晴らしさを知っている。そして活動を通して伝えたいもう1つのことは「あなたも、まわりの人に”一緒に生きよう”と伝える人になってほしい」ということだ。
全てのことは一長一短。何が良くて何が悪い、何が正しくて何が間違ってる、そんな問題ではない。やれることをやるしかない。
*結局人生は選択
結局、全てのことは自分の選択による。今いる環境も、周りにいる人も、仕事も、生き方も、価値観も、生も、死も。
誰だって「自分の選択」によって生きている。だから、人の命を周りがあーだこうだ言う権利なんてない。死にたい人に対して生きて欲しいと思うのは、その人の思いや願いを妨げるこちら側の勝手な願いにしか過ぎない。「生きて欲しい」という思いすらも、「こっち側」が思う自己中心的な発想なのだ。
だから、出来ることは「本当は生きたいけど、死にたい」という”生きたい”の部分に、生きようと思える選択肢の幅を広げて提供することくらいだ。
- 励ましが生きる力になるなら励ましを
- 友達が力になるなら、友達になる
- 生きるために助けが必要なら助けを
- 希望があれば生きられるなら希望を
その人の「生きる力」になるものが、「死にたい」気持ちを上回ればもしかしたら生きられるかもしれない。そして、何かしらの”生き方の提案”が、その人の”選択”に影響を与える事も出来るかもしれない。結局のところ「生きる」というのは、本人の「力」なのだ。
*私が提供できる生きる力
私に生きる力をくれたのは、私を死の淵から救ってくれた神さまだ。私はこの選択肢を提供することしかできない。友達になってあげたいとも思うが、あまりに性格の合わない人とは一緒に居たくないのが本心だ。友達くらい自分で選びたい。
けれど、私の知ってる神さまはめちゃめちゃ愛がある。どんなに私の性格が悪くても、どんなに罪深くクソ野郎な人間でも、永遠に変わらない愛で愛している。
「神がいるなら、なぜあの時」と思う人もたくさんいると思うが、私を救ってくれたのは“聖書“に書いてある神だ。
まず、助けてと言ったことがあるか?
どの神に助けを求めたのか?
聖書には、求めなさいそうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。神に近づきなさい、そうすれば神もあなたがたに近づいてくださいます。とある。
私が鬱だった時、私が死のうとした時、神なんて信じられなかった。「神がいるなら救ってみろ」と叫んだこともあった。でも、今私は「生きていてよかった」と思える奇跡をもらった。だから、私は「救いはある」と伝えたい。
*私の知っている神は、こんなやつだ
神様というと、遠い存在に感じる。得体の知れない大きな誰か。しかし、私の出会った神はこんなやつだった。
- いつもそばにいてくれる。
- 祈りを聞いてくれる。
- どんなときにも味方でいてくれる。
- 問題が起こったときに頼りになる。
- 有意義な人生が送れるように、指針をくれる。
- 失敗や間違いを許して、天国に導いてくれる。
- 心にある思いをすべてわかってくれる。
- 自分が生まれた意味を教えてくれる。
私は、自分の苦しみや痛みをわかってくれる人なんていない、と常に孤独を感じていた。自分が生きている意味も、ずっと探し求めていた。けれど、人は私に応える事が出来なかった。
「愛してほしい」と求めても、人は時に裏切る。自分でも自分の存在価値がわからない。そんな中、私はこの聖書の神に救われた。
だから、自分と同じような思いをしている人に、自分の体験を通して伝えられることは「神はどんな問題も乗り越える力を持っていて、その神はいつでもあなたの味方になる準備が出来ている」ということ。ただ、神さまは、無理やりあなたの心をこじ開けはしない。でもあなたがこの神さまに心を開くなら、きっとあなたを救ってくれる。
*結局は自己満足
「自殺者を減らしたい」と活動しているが、賛否両論いろんな意見が寄せられる。しかし、私の人生は私が決める。それに尽きる。結局のところ、この活動も深く掘り下げればすべては「自分のため」にやっているのだ。
私はもう、「自分に出来る事があったのではないか」と後悔したくない。周りで4人が自殺で命を落とした。そして、自分自身も毎日「死にたい」と思って生きていた時期があった。けれどそこから抜け出した今、私は「生きててよかった」と思うのだ。それは私にとって奇跡なのだ。
だから、今、死にたいと思っている人にも、「生きててよかった」と思える未来の希望があるのではないかと思えて仕方ない。
だから私は自分の為にこの活動を続ける。
そして、誰よりも「あなたに生きててほしい」と願っている神さまの為に。
*まとめ
以上をまとめると、
・私に人を救う力なんてないと知っている。
・偽善者と言われるが、これが善であるかすらわからない。
・すべての人には届かなくても、”本当は生きたい”人の応援がしたい。
・私が提供できるのは、私がもらった「生きる力」だ。
・結局「生きる事」を選ぶのはあなた。
・でも「あなたの味方になってくれる存在」がいる。と伝えたい。
今回は、どんな思いでこの活動をしているのかというところをまとめました。私は偽善者にもなれないくらい汚い人間です。自分を取り繕う気も無いし、人によく見られたくてやることもしない。嘘はつけないし、つかない。
でも、自分の活動が「意味の無い物」ではないことも知っている。今まで沢山の人が、歌を聴いて涙を流してくれ、「あなたと出逢えてよかった」と言ってくれた。全ての人には届かなくても、たった一人でも「生きよう」と思える気持ちになってもらえるのなら、私はいつまでも歌い続ける。
▽天国の友達に向けて作った歌
んちゃ!
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>>「頑張る」が口癖の私は本当は今すぐ「頑張る事」をやめたい
矢嵜風花suicide0(自殺者撲滅啓発活動)過去の活動経歴。
- 2011年11月 地域支援のため誰でもこられる場として”Chie’s cafe”をオープン。(当時 NPO法人 IFC On Higher Groundに所属)
- 2013年10月より音楽活動を始める。音楽を通してメッセージを発信。(路上ライブイベン トを開催。高崎市後援)
- 2015年3月より 桐生まちなかTVレギュラー出演。ゴスペルコーナーを担当し、「明日も ちょっと頑張れるかも」と思えるあったかメッセージを配信。(現在は番組終了)
- 2015年4月より FM桐生にて準レギュラー出演。ゴスペルコーナーを担当し、生きる力に なるような名言を発信。
- 2015年7月より 高崎市にて地域支援として毎月集まれる居場所作りの定例ライブを月1で開催。 2015年10月 子ども達に命の大切さを伝えるためのキッズライブ主催。(高崎市後援)
- 2014年~ 「日本の現状について考える~鬱、引きこもり、自殺について~」というタイトルで モーニングセミナー講師を勤める。(高崎、安中、前橋、富岡)
- 2016年5月7日 LABI1高崎にてチャリティイベントYOU ARE SPECIALを開催。 後援:高崎市、NPO法人serve the least international他。参加施設:社会福祉法人ゆずりは会、社会福祉法人萌希の丘ほほえみ工舎、社会福祉法人あかぎ の響、HOPE GARDEN等。
- 2017年5月2度目のLABI1高崎にてチャリティイベントYOU ARE SPECIALを開催。
- 2018年5月わんまんらいぶ「ありのまま生きよう」を高崎市たまごホール(300人収容)にて開催。
- 2018年12月自殺者撲滅啓発活動ライブ「あしたの一歩」を開催。